FAZER LOGIN最初に気づいたのは、たった一行のメッセージだった。
事故の十日前。
その日は珍しく、拓真が先に寝ていた。
私はリビングで、翌週のプレゼン資料を確認していた。
午前一時を過ぎたころ。
テーブルの上に置かれていた拓真のスマートフォンが震えた。
見るつもりはなかった。
本当に。
けれど、画面に表示された名前が目に入った。
白石美月。
会社の広報部にいる女性だった。
その下に、短い文章が表示されている。
《次はいつ会える?》
私は手を止めた。
胸の奥に、嫌なものが落ちていく。
三十一歳。入社五年目。
明るく、人当たりがよく、社内イベントではいつも中心にいる。
私とは正反対のタイプ。
だからといって、そんなことは関係ない。
午前一時を過ぎて夫のスマートフォンに届く内容ではなかった。
私はしばらく画面を見ていた。
やがて表示が消える。
見なければよかった。
そう思った。
でも、一度生まれた疑いは、簡単には消えてくれない。
私は寝室のほうを見た。
ドアの向こうは静かだ。
十年間、何度も聞いた寝息が、そこにあるはずだった。
私はスマートフォンを手に取った。
暗証番号は知っていた。
結婚記念日。
昔から変わっていない。
ロックが解除される。
そのことが、かえって腹立たしかった。
隠しているくせに、油断している。
美月とのメッセージを開く。
最初の数行を読んだだけで、十分だった。
《昨日、楽しかった》
《また同じホテルでいい?》
《玲花さんにはバレてないよね?》
画面がぼやけた。
泣きそうなのだと気づくまで、少し時間がかかった。
私はスマートフォンを置き、呼吸を整えた。
怒りより先に来たのは、恥ずかしさだった。
私は何も知らなかった。
拓真の妻として。
同じ会社で働く役員として。
美月とは何度も顔を合わせていた。
「水城さんのような女性になりたいです」
そう言われたことさえある。
私はそれを素直に受け取っていた。
滑稽だった。
もう寝よう。明日考えよう。
そう思ったとき、スマートフォンがもう一度震えた。
新しいメッセージ。
《玲花さんの件、本当に大丈夫?》
指が止まった。
玲花さんの件。
私のこと。
何が大丈夫なのか。
心臓が早くなる。
私は画面を開いた。
その直後、トーク画面に拓真の返信が現れた。
《問題ない》
続いて。
《来週までには片づく》
背中に冷たいものが走った。
浮気の話ではない。
直感的にそう思った。
そして、もう一つのことに気づく。
今の返信は、このスマートフォンから送られたものではない。
拓真のスマートフォンは、ずっと私の手の中にある。
それなら彼は、どこから返信したのか。
「玲花?」
声がした。
振り向く。
寝室の入口に、拓真が立っていた。
片手にタブレットを持っている。
私は反射的にスマートフォンを伏せた。
「どうした?」
拓真は眠そうに目を細める。
「まだ仕事?」
「うん。もう終わる」
「それ、俺の?」
拓真はテーブルに歩み寄り、伏せたままのスマートフォンを自然な手つきで取り上げた。
「目覚まし、かけ忘れててさ」
「そう」
「無理するなよ」
いつもの優しい声。
その声を聞いた瞬間、吐き気がした。
拓真は私の額に軽くキスをした。
「先に寝てる」
私は笑った。
「おやすみ」
夫が寝室へ戻っていく。
ドアが閉じた。
私は空になった自分の手のひらを見つめた。
タブレット。
拓真は眠ってなどいなかった。
寝室の暗がりで、美月に返信を打っていたのだ。
そして、自分のスマートフォンで美月のメッセージが読まれたことにも、きっと気づいている。
ドアの向こうは静かだった。
でも分かった。
拓真は今も眠っていない。
彼もまた、私が何かを見たことを知っている。
その夜から。
私たちの間で、見えない戦争が始まった。
午後十時五十五分。MIZUKI DESIGN旧本社。二年前に本社を移転してからは倉庫として使われ、今は売却を待っているビルだ。人の気配はほとんどない。一階の暗いロビーに、私は一人で立っていた。見える範囲では、本当に一人。でも、輝は別室にいる。美月もいる。警備会社のスタッフも建物内にいる。音声も映像も、弁護士のもとへ届いている。午後十一時。自動ドアが開き、拓真が入ってきた。一か月以上ぶりに見る夫だった。痩せた。髪も少し乱れている。でも、十年間毎日見てきた顔だ。拓真は私を見て、止まった。本当に、幽霊を見たような顔だった。「……玲花」私は答えた。「久しぶり」彼の唇が震える。「生きて……」「残念だった?」「違う!」拓真が近づこうとする。私は一歩下がった。「そこにいて」拓真が止まる。「玲花、聞いてくれ」「聞くために呼んだの」「全部誤解なんだ」思わず笑った。「便利な言葉ね」「俺はお前を殺そうとなんてしてない」「じゃあ、何をしたの?」「何も」「ブレーキ」拓真の顔が変わった。ほんの一瞬。でも、見逃さない。「何の話だ」「LUNAREST PARTNERS」沈黙。「三千万円」「会社の正当な支出だ」「私の辞任届」「会社として必要だった」「事故の二日前に?」拓真が黙る。私は一歩前へ出た。「MIZUKI DESIGNのお金を移して」もう一歩。「資金繰りを
美月からUSBを受け取ったのは、翌日の夜だった。場所は、輝が指定したホテルの地下駐車場。人目につかない場所だ。美月はタクシーで来た。帽子を深く被り、何度も後ろを振り返っている。「これです」差し出された小さなUSBメモリを、私は受け取った。「中身は?」「拓真さんとの会話です」「いつの?」「玲花さんの事故の前日です」私は輝を見た。彼がノートパソコンを開き、USBを挿す。音声ファイル。日付は、事故の前日。再生。最初に聞こえたのは、グラスの触れ合う音。店内のBGM。そして、拓真の声。『明日で終わる』私は息を止めた。美月の声。『何が?』『玲花のこと』『どうするつもり?』少しの沈黙。『しばらく会社から消えてもらう』『それって……』『心配するな』そこで一度、録音が途切れる。次のファイル。拓真の声。『ブレーキだけでいい』私の手が止まった。『死ななくても、しばらく会社から消えてくれればいい』美月。『そんなことしたら事故になるでしょ』『事故になればいいんだよ』空気が凍った。私は何も言えなかった。録音は続く。『もし死んだら?』美月の声。そして、拓真。少し笑っている。『それならそれで、面倒が減る』そこで、私は再生を止めた。それ以上は、聞けなかった。輝が無言でパソコンを閉じる。美月が泣いていた。「ごめんなさい」私は彼女を見た。「カフェで、車のことは知らなかったって言いま
拓真は確信していた。玲花は生きている。写真。メール。消したはずの情報を知っている。偶然ではない。問題は、どこにいるか。誰といるか。そして、どこまで知っているか。拓真は一人の男に連絡した。「女を探してほしい」『誰です?』「水城玲花」沈黙。『事故で行方不明の人じゃ……』「生きてる」『警察は?』「余計なことは聞くな」拓真はいくつかの住所を送った。玲花の友人。親族。そして、神谷輝。その名前を打ち込んだとき、拓真の眉が動いた。大株主。玲花の元恋人。事故の前に、二人が会っていた記録もある。「神谷……」嫌な予感がした。◇その頃、私は隠れ家の窓辺に立っていた。夕方。外は静かだった。輝は仕事の電話をしている。私はコーヒーを飲んだ。昨日の喧嘩以来、少し気まずい。でも今は、それより考えることが多すぎる。証拠。拓真。これからのこと。ふと、道路に目をやる。一台の黒い車。見覚えがある。さっきから、ずっと停まっている。エンジンは切っていない。私はカーテンを少し閉めた。「輝」「何」「外」彼が近づいてきて、窓の外を見る。表情が変わった。「どれだ」「黒い車」「いつから」「分からない」輝はスマートフォンを手に取った。「ここを出る」「今?」「今だ」「大げさじゃ……」「玲花」
私と輝は、また喧嘩をした。理由は、十五年前のことだった。「もう逃げないで」私は言った。「逃げてない」「じゃあ話して」輝は黙る。「お父さんに何を言われたの」「玲花」「もうお父さんはいない」父は六年前に亡くなった。だからこそ、今さら本人には聞けない。「知りたいの」輝は窓の外を見た。そして、ようやく口を開いた。「当時、会社はかなり危なかった」それは知っている。あのころ、父の会社は資金繰りに苦しんでいた。「銀行から追加融資を受ける必要があった」輝が続ける。「そのとき、大手企業の創業家との縁談が持ち上がった」「私の?」「そう」「それとあなたが別れることに、何の関係があるの」「相手の家が、君に恋人がいることを気にしていた」私は言葉を失った。「お父さんが……」「俺に、別れてほしいと言った」「それで別れた?」「そうだ」怒りが湧く。「私に相談もせずに?」「相談したら、君は父親と会社を助けるために、自分を犠牲にした」「勝手に決めないで!」「分かってる」「じゃあ、その縁談は?」輝は少し苦しそうに答えた。「結局、成立しなかった」「……何?」「君のお父さんは、別の金融機関から資金を調達できた。正式な婚約になる前に、話はなくなった」「じゃあ」私は笑った。笑うしかなかった。「何のために別れたの?」輝は答えない。「そのあと、戻ってくればよかったでしょう」「戻ろうとした」初めて、輝がそう言った。「会社が持ち直した半年後に」私
翌日。会社のサーバーから、複数のファイルが削除され始めた。会計。契約。社内メール。私は監査用バックアップの画面を見ていた。「始まったな」輝が言う。「拓真が気づいた」通常のサーバーからは消えていく。でも、監査用バックアップには残る。「消せば消すほど、操作ログも増える」私は言った。削除を実行している管理者IDは――青木。退職したはずの人間のアカウントが、まだ生きている。「青木さんは、まだ拓真とつながってる」◇その日の夜。拓真のスマートフォンに、一枚の写真が届いた。送り主は、彼が雇った調査員。《この女性ではありませんか?》小さなカフェ。帽子。眼鏡。横顔。変装としては悪くない。しかし、十年一緒に暮らした夫には十分だった。拓真は画面を拡大した。手。鞄の持ち方。俯いたときの首の角度。「玲花……」もう一枚。店を出る女性。その後ろに、神谷輝。拓真は確信した。玲花は生きている。そして、神谷と一緒にいる。恐怖が、一瞬で怒りに変わった。拓真は電話をかける。「間違いない」低い声。「水城玲花だ」◇その頃、私は三通目のメールを作っていた。《拓真へ。会社のサーバー、ずいぶん整理してるみたいね。でも残念。消す前に全部見た。青木さんにもよろしく。玲花》輝が画面を見て言った。「送るのか?」「送る」
カフェを出たあと、私たちはすぐに場所を移した。輝の車の後部座席には、美月も乗っている。「本当に会社の車だった?」輝が聞く。「はい」美月が答える。「ナンバーも覚えてます」私はそれをスマートフォンにメモした。「誰が運転してた?」「分かりません」「拓真?」「違うと思います」私は窓の外を見た。では、誰なのか。会社の中に、まだ誰かいる。拓真の協力者が。隠れ家へ戻ると、私は以前保存していた経理データをもう一度開いた。ひとつの名前が浮かぶ。青木。経理責任者。《この件は、あまり触られない方がいいかもしれません》あの言葉。「まさか」でも、調べない理由はない。私は監査用バックアップの人事データを開いた。答えはすぐに出た。「青木さん、辞めてる」「いつ?」輝が聞く。「事故の三日後」私は息を止めた。退職理由は「一身上の都合」。記録にあった番号に電話をかけてみる。つながらない。輝が人を使って自宅を確かめると、すでに引っ越したあとだった。私は椅子に座り込んだ。「逃げた」輝が言う。「もしくは、逃がされた」青木。父の代からいる人。私が子どものころから知っている人。会社で何度も助けてもらった。その人まで。「裏切ってたのかな」声が少し震えた。輝は答えなかった。そのとき、美月からメールが届いた。《青木さんのことなら、少し知ってます》私はすぐに電話をかけた。「何を?」『拓真さんと、よく会ってました』